急に人混みがはけた。さっきの地下にグレーの子猫がいる。暗くてよく見えないが、子猫は階段を降りたところで、私を見上げて鳴いている。私はタラを失わないようしっかり抱きしめ、呆然と階段の上に立ち、なすすべもない。

　目が覚めた。心臓がバクバクしている。夢だったのだ。夫は軽いイビキをたてて寝ている。タラの居場所を確認したい。どこ？ベッドの横、テレビの前、いない、いない。キッチンにもいない。洗面所にもいない。いない、いない。

　「タラがいない！」

　・・・が、戸締りのしてあるマンションの中でいないわけはなく、これまでに入ったことのない狭い場所に隠れこんでいるタラを発見した。タラ、もう足がフラフラなのに、なんでこんなややこしいところに入ったの？

　この悪夢を見た翌日、タラは旅立った。私はタラを離したくなかったけれど、運命の流れは押しとどめることができない。葛藤が夢の形で現れたのだ。夢だったのに、新宿の雑踏の中で一生懸命抱きしめたネコの身体の柔らかさと温かさを、今も憶えている。

　夢の中で、地下にいたグレーの子猫は、助けの手を求めていたけれども、タラを両手に抱えていたから、何もできないままだった。その状況も実に示唆的である。

　タラは逝ってしまった。会いたいけれど、もう会えない。日々が忙しいばかりであれば、まだましなのだが、ぽっかり時間が空くたびにタラの不在が身に染みる。

　何かをしている最中にも、長年ネコを飼っていた人間の習性が、脊髄反射のように飛び出してしまう。脳内で処理されないままの生の感覚である。

　たとえば、キッチンで缶詰のプルトップを引っ張り、「パキャッ」という音を聞いたその瞬間に「あ。タラが来る」と思う。既にうちにネコ缶は無く、パキャ音を聞いて勘違いしてやってくるネコもいない。

　たとえば、外出着を脱いでベッドの上に置き、「さっさとハンガーにかけないと・・・」と思い、その続きの「・・・タラが服の上に座り込んでしまう」を呑み込む。服をいつまで放置しても、その上に座り込んで、布を毛だらけにするネコはいない。

　そういうことを、ゼロコンマ一秒レベルの反射で思うことの繰り返しである。帰宅して玄関を開けたときに「タラ、帰ったよ〜」と言ってしまうのはさすがに止まった。タラが今どこにいるかを確認する習慣もやがて止まった。しかし、床に置いたバッグが目の端に入ると「タラ？」と脳が信号を送る。

　タラはもういない。夢の中で地下にいた子猫は具現化するのだろうか？　

掲示板へ　 目次へ　 ←次を読むならクリック！