タラをキャリーに詰め込むのは、いつも大変だ。準備の気配を悟られてはならない。バレたら手の届きにくいところに逃げられて面倒なことになる。捕まえてキャリーに入れてからも、フタを閉める隙に飛び出されて元の木阿弥になったことが幾度かある。手が四本ほしいところだが、平日の午前１０時に拙宅にある手は二本だけである。

　前準備として、キャリーは前日に天袋の定位置から、押入れの下段に下ろしておいた。更にタンスのそばに椅子を設置。そしてなにげなく和室へと移動する私。「腹減った〜。何か出せ〜」とついてくるタラネンコ。私はフスマをピシャリと閉めた。瞬時に事態を理解し、タラはタンスの上に飛び上がる。私は押入れからキャリーを出してフタを開け、タンスの下の椅子に乗って、タラを引っ張りおろす。キャリーはプラスチック製で、天井部が両開きになるタイプなので、入れるのはスムースである。フタをロックするのに焦ってバタバタしてしまったが、意外とうまく身柄を確保できた。タラ入りキャリーを手に、そのまま出発。玄関を出るあたりでは大声で文句を言っていたタラだが、エレベーターまで来ると静かになった。「気配を消す」という作戦のようだ。玄関から一歩出たらジャングルだから、他の動物に存在を知られてはいけないのである。固まったタラを動物病院へと運ぶ。アシスタントのお姉さんに「小心者なのでよろしくお願いします」と頭を下げて、引渡し完了。私は帰宅。

　飼い主というものは、ネコを病院に連れて行って置いてきたのは自分であるにもかかわらず、一人で自宅にいると、無意識のうちに、ソファの上や部屋の隅に目線をさまよわせてしまうものだ。これは精神衛生に悪いので、実は、美容院に予約を入れてあった。遅めの午後から仕事があるのだが、それまでには戻れる計算である。万一の場合に備え、携帯はカバンではなく、ポケットに入れて美容院へ。病院側が連絡をとろうとした時に、携帯が美容院のロッカーで鳴っていてはシャレにならない。そんな時は、シャンプーで泡だらけであろうと、カットが途中であろうと、髪振り乱して駆け戻る心積もりであったが、幸いなことに携帯が鳴ることはなかった。

　「お迎えは６時半から８時の間で」と言われていた。私としてはなるべく早めに引き取ってやりたいと思ったが、仕事が終わって病院に駆けつけたのは７時半。待合室にパピヨンとゴールデンレトリバーとそれぞれの飼い主がいた。すぐ引渡してもらえると思っていたが、順番待ちしないといかんらしい。小さいとこだし、センセイは一人だから仕方ないのかな。

　診察室に誰かいるのだが、時間がかかっている。内容はわからないが、何か話が長引いているような雰囲気だ。やっと出てきた中年女性は動物を連れていなかった。受付での会話。

　「初診料の１２００円をいただきます」
　「でも、セカンドオピニオンをいただきましたから、その分が・・・」
　「先生が初診料だけと言ってますので・・・・」

　なるほど、そういうことだったのか。この方のペットさんは何か深刻な病気を抱えているのだ。お辛いことだ。脇にかかえた茶封筒には資料が入っているのに違いない。

　その後に、パピヨンが診察室に入り、その後、ゴールデンが入り、それぞれにそこそこ時間がかかったので、私が呼ばれた時は、もう８時１５分くらいになっていた。ちなみに、ゴールデンの飼い主は、帰り際にカウンターで「このコ、歯石取りもそのうちお願いしたいと思っているんですが」と言っていた。センセイは「はあ」と生返事。普通ならそこで「では、予約を」とくるんだろうが、この人はこうなのである。「やる気ないのか？」と思われても仕方ないが、そういう人なのである。更にその飼い主が「前にお腹が悪かったときに貰った薬が余っていて」と薬を出して見せると、その残り個数を数えて、本日の投薬料から引き算していた。そういう人なのである。

　やっと連れて来られたタラをキャリーの扉越しに覗き見る。目を見開いて、茫然自失という表情だが、元気そうだ。「タッちゃん！」と声をかけるが、返事はなかった。さて、多くの会話は期待できないセンセイであるが、この二点だけはと思っていたことをカウンター越しに尋ねてみた。

　「今後のデンタルケアはどうしたらいいでしょうか？」
　「１０歳くらいまでは、２，３年に一度歯石を取って、それからあとは自宅ケアを中心に」
　「でも、問題が起こるのはそれからあとですよね」
　「どうしてもしないといけないときはします」

　センセイ、うつむく。

　「麻酔の前に血液検査をするということでしたが、その結果で何か気になる数値はありましたか？」
　「いえ。腎臓も肝臓も大丈夫です」
　「その結果のコピーをいただけませんか？」

　センセイ黙って奥に引っ込む。しばらくしてから、紙を手渡された。その紙に印刷された表にはたくさんの項目があるが、手書きで数字が記入してあるところは四箇所だけ。血糖値とBUNとアルブミンとGPT、なるほど、それらはノーマルレンジにきちんと納まっている。

　「簡単な検査ですので・・・」
　「はい。ありがとうございました」

　センセイは口数の無駄が全然ないが、医療行為の無駄もない。事前に、私が「血液検査もお願いしますね」と言ったときに「麻酔の前はやりますから・・・」と返事していたのは、別メニューではなく、セットメニューに入っている血検ということだったらしい。結局、麻酔下歯石除去の最低料金である１５０００円にて、お会計終了。

　５．５キロ（たぶん）のタラ入りキャリーを手に自宅に帰りつく。玄関でキャリーの扉を開けてやったら、匍匐前進で、リビング方面へ侵攻。テーブルの下にドテッと横になる。足取りはしゃんとしていたが、まだ身体がダルいのだろう。避難場所と決めたらしいテーブルの下で、一心不乱に毛づくろいをしている。延々と、延々と毛づくろい。病院のケージの中ではそれどころでなかったのだろう。手足や身体を舐めて、辛い目にあった自分をなだめているのだろう。不憫である。

　「麻酔後の注意」という紙を貰っていて、「水は９時以降。ゴハンは９時半以降。どちらも少しずつ」とあった。タラはいつもなら水があるはずの場所に行って、何もないことにすっかり肩を落としている。まだ、９時に３０分あるが、もうよかろうかと思って出してやる。「少しずつ」は全然無理で、タラはチャパチャパと飲み続けた。「吐かないならもういいや」と私は思い、タラの背中をなでなでして飲ませてやった。心がパニックになることの連続だった一日なのに、ずっと水を貰えなくてさぞかし辛かっただろう。ゴハンも３０分前倒しで出してやった。缶詰を四分の一、アッと言う間に食べて、空のお皿を名残り惜しげに舐めているので、しばらくしてからもう四分の一出してやった。それもきれいに食べた。

　タラはなかなか平常心に戻れないようだった。カーペットの上で香箱を組んでいる。耳がピンとなっていて情報収集中であることがわかる。そのまま１２時を過ぎても耳が立ったままで、眠らない。薄目を開けて憮然として香箱状態。私が寝るときにいつものように抱っこして、布団に連れて行ったら、すぐ抜け出て行った。普段は出て行ってもすぐに布団上の足元で丸くなるのだが、戻ってくる気配はない。しばらくしてリビングに行ってみると、さっきまでいたカーペットの同じ場所で再び憮然と香箱を組んでいた。もう一度なだめて布団へ連れて行く。今度は少し心がほどけたのか、そのままじっとしていた。

　翌日、タラの口をイーッしてみたら、奥歯まで白くピカピカのツルツルになっていた。苦労はあったが、やった甲斐はあったかも。これをなんとか維持したい。それから、病院で貰った注意書きや明細のたぐいを整理していたら、そのすべてにセンセイのへたくそな字で「タクちゃん」と書いてあった。タ、タクちゃん？助手のお姉さんはちゃんと「タラちゃん♪」と呼んでいたが、センセイ的には今日一日、このネコは「タクちゃん」だったらしい。この人のことだから、心の中で呼びかけていただけかもしれんが・・・・。

　「たくちゃん食べよ」のタクちゃんってことで？

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