２６ 夏の清算
ネコは先祖が砂漠の生き物だから、暑さには強いと読んだことがある。
確かにイヌと比べるとネコは、相当平気な顔して夏を乗り切る。
タラは暑さの最盛期には省エネモードに切り替えていたようだった。
長時間寝て、食事は少なめ。人間への要求も少なめ。
涼風が立つようになると、よく食べよく遊ぶモードに戻った。さすが、ネコ。
そんなある夜、タラが大声で私を呼ぶ。
「ウニャオー、ウニャオー」
「うるさいわねー。何なのよー」
「ウニャオー！！ウニャワオー！！」
ん？様子が変だ。ドライは皿にある。水もオッケー。トイレは・・・・、
トッ、トッ、トイレがぁ〜。お砂場は飛び散るピンクの下痢便だらけになっていた。 アワを食う私。タラは以前に血便騒ぎを起こしたことがあるが、それは収まって久しかった。 しかもその時の血便は赤いのがポタリ程度で、ここまで全面着色のシロモノは見たことがなかった。 そもそも軟便タイプであったが、それすら、最近は好調でそこそこ良いブツを排出していた。こんな水分の多い下痢は前代未聞。
時計を見る。８時２０分。いつもの病院はもう終わっている。夜間もやっている別の病院に担ぎ込むべきなのか？ 周辺の清掃をしながらの思考が空回りする。タラに目をやる。私が掃除を始めたのを見て安心したのか、床で伸び伸びして回転している。このような奴が緊急事態にあるとはとても思えない。採取した桃色下痢便をビニール袋に詰めて保管、明日の朝イチで病院に連れて行くことに。
常設のドライ置き場は即刻撤去された。タラは夜更けにポリポリ食すのがお好きであるが、こういう場合、まずは絶食がセオリー。翌早朝、私がトイレに起きたら、腹ペコ・タラが飛び起きて「ワニャワニャ」言いながらついて来た。何も出ないと知ると、肩を落として布団に戻った。夫が起きたら、再び「ニャコニャコ」言いながらついて行った。缶詰を開けてもらうのが習慣だからだ。しかし、またもや何も出ない。 タラはすっかりふてくされ、カーテンの陰に引っ込んだ。顔だけ出して、人間の動きを目で追っている。期待できそうな様子が見えたら、即、飛び出そうという形であった。
朝、９時。動物病院のシャッターがスルスルと上がったとき、鳴きわめくタラ入りキャリーを手に、私はもう玄関前に立っていた。一番で診察、検便。
「寄生虫も悪い菌も見られません。ただの下痢です」
ただの下痢にしては派手だったが、ま、そうおっしゃるのなら、そういうことにしておこう。
下痢止めと止血の注射をしてもらい、薬と療法食を持たされた。
「今日の夜まで水以外与えないでください。そのあと二日は療法食だけで」
それは大変。夜までずっとタラの文句を聞かねばならぬ。
帰宅して、キャリーの扉を開けてやると、タラは匍匐全力疾走でベッドの下へ。３０分ほどして、やっと気を取り直して出てきた。全身を上から見ると、ああっ、痩せてる、お腹がぺったんこ。だがよく考えると、このネコはこういう体型なのであった。「タラを見ると太刀魚を思い出す」と言った奴もいたな。顔を覗き込むと、うわっ、頬がこけている、げっそりしてる。だが、そもそも母ネコ譲りのトンガリ顔なのであった。「顔がイタチ」と言った奴もいたな。私か・・・。 下痢した翌朝の段階で、すでにやつれていると思う私の心のほうが問題だ。
食べるものを出してもらえないのに、不思議と絡んでこない。なんだ、この温和さは？「KGBの残党・タラネンコ」と呼ばれた執拗にして無慈悲なスナイパーがこれでいいのか？哀れに思い、身体をなでてやると、盛大にゴロゴロいう。タラや〜、夏の疲れがここで一気に出たのかい？もうそろそろ秋だよ。早く元気におなり。
タラが爪とぎ板の上でバリバリする。ま、まずい。ここで爪とぎするよう躾けるために、我々の間には、「正しくできたらオヤツ」というお約束があった。私の顔を見すえながら、タラは前足を動かす。視線がマジだ。目を合わさんようにしよう。
お昼前に出かけて、二時間ほどしてもどって来たら、タラはソファカバーの布を被って寝ていた。丸く盛り上がった青い布がタラの呼吸で上下している。おーよしよしと、布の上からなでてやったら、飛び出て来た。そのままダッシュでゴハン置き場へ・・・。ごめんよ。起こすんじゃなかった。罪悪感にまみれながら、自分だけ遅めの昼を食べる私。見上げるタラ。
先生は「夜まで水だけ」と言った。夜って何時？８時？７時？６時ではだめ？あ、今、タラがよろめいた。空腹で力が入らないのか？
その日、当家において、夜は４時に訪れた。タラは療法食をハグハグ食べた。お好きでよかった。
ま、ここまでお腹が減れば、本人も四の五の言ってる場合ではないだろう。
食後に満足げに顔を洗って毛づくろい。なんだか、さっきより全体がふっくらしたような。
あとはこのゴハンが形あるブツとして産み落とされることを祈るばかりである。
残暑はまだ厳しい。
